旧大社駅の保存修理が決定し開始したのが2020(令和2)年。2025(令和7)年に保存修理が完了し、2026(令和8)年4月15日から一般公開されました。
今回の保存修理においては、1924(大正13)年に完成した当時に近い復元を目標に修繕がなされました。復元にあたっては新たに発見された画像等の資料を基に、1940(昭和)15年頃の大社駅として復元されました。
先日、私は帰省した折に一般公開された大社駅へ訪問して、復元された大社駅を見るとともに、私の記憶にあった現役時代(廃線直前の昭和60年代~平成2年)(この後「現役時代」と表現する箇所はこの時代を指します)の大社駅が失われたものを再確認をする機会となりました。
今回の復元で個人的に「をを!」と感じたのは、改札口上に掲げられた時刻表。到着時刻と発車時刻が書かれた時刻表ですが、1940(昭和15)年頃を参考にしたことで、かの「サンライズ出雲」のルーツとなる急行401列車、402列車が表記されております。
この列車は、山陰線初の優等列車となる1928(昭和3)年12月25日に運行開始した大阪~浜田間の無名の準急列車が、1935(昭和10)3月に運行区間を大阪~大社間に変更の上急行列車に格上げされた列車です。日本人の旅行の原点である「お宮参り」の列車として、当時の「富士」等に優等列車に連結された食堂車を運営した、みかど株式会社による半室和食食堂車も連結された破格の編成でありました。また和食食堂車でありましたが、洋食も提供されたようです。当時の記録によると編成は、
C51もしくはC54ーオハニ35500ーオロ30600ーマイシ37900ーオハ32000ーオハフ34000
でした。木造車中心の山陰線において鋼製車のみで組成された編成で、その中でマイシ37900は門司~長崎間で運行されていた急行列車に連結されていた一等と食堂の合造車で、一等車連結中止に伴って本列車へ転用された車両を2等車扱いで組み込みこまれたものでした。様々な階層が利用する「お宮参り列車」と称された列車は、伊勢神宮へのお参りを目的とした東京~鳥羽と姫路~鳥羽、そしてこの列車の3系統のみであります。関東と関西から伊勢神宮へ設定というのは何となく理解できるところですが、わざわざ出雲大社へも設定されたところに、他の神社神宮とは一線を画しております。

この「お宮参り列車」以外にも、戦前の時点で各方面から大社線へ直通す列車が複数設定されており、一支線でここまで大都市圏とを結ぶ列車が設定されていたことは、特筆すべき点です。

戦時体制になりこの急行列車は一旦普通列車に格下げされましたが、戦後すぐに準急で復活。その後急行列車に格上げされて東京駅とも結ばれるようになりました。
東海道新幹線開業直前においては、直通列車こそ3本と減りましたが、大都市圏を結ぶ優等列車への接続を考慮された発車時刻となっております。注目は、22時20分発宍道行普通列車。「なぜ宍道行?」と思って接続を見ると、広島行きの夜行準急「ちどり」が。この当時は、大社駅から乗り換え1回で夜行列車にて広島まで移動することができた時代でした。なお広島発夜行準急「ちどり」の宍道着が5:07着で、これに接続する221Dが5:13発大社行が設定されており、広島からも乗り換え1回で大社駅へ到達することができました。
改めて見ると、出雲市駅を起点に急行「いずも」東京行きを筆頭に山陰線初の特急列車である「まつかぜ」京都行き並びに博多行き、四国方面とを結ぶ宇野行「準急しんじ」、広島行き「準急ちどり」と優等列車が各主要都市へと結び、また普通列車ながら夜行列車も設定があり、対大社方面として昼夜問わずルートが確立しており、大社駅の利用が多かったことの証左でもあります。

一方、廃線時の上り発車時刻票をみると、昭和の時代と異なり出雲市駅での優等列車との接続があまり考慮されておらず、30分~60分の待ち時間を余儀なくされておりました。


廃線直前は観光案内所や臨時出札口として活用されていた旧出札口も、当時の写真をもとに復元されました。戦前の鉄道網として特筆される点として、朝鮮半島や中国大陸への鉄道網が確立しており、日本国内から大陸方面への切符が発売されていたことでした。復元された運賃表示を観察すると、この大社駅においても京城(現ソウル)や新京(現長春)の運賃が運賃表に記載されております。
次に南側から駅舎内を眺めます。中央の出札口周辺は三等待合室とし、一等並びに二等待合室がこの構図の後ろ側に設けられました。現役時代の出札口は当時の貴賓室へと復元されたことで、現役時代の様子が逆に過去のものとなりました。

ここで13年前に撮影していた駅舎内の写真を紹介しましょう。

この時は、一部博物館的に当時使用されていた備品などの展示はあるものの、駅舎内構造は廃線となった1990(平成2)年3月31日のまま残されていました。運賃案内は大陸方面こそないものの、東京都区内や中京並びに京阪神方面の運賃や特急料金、寝台料金の案内がされており、まだまだこの時でも鉄道で三大都市圏と繋がっていることを案内しているものでした。

現役時代に出札口として使用されていた一画は、かつての貴賓室へと復元されたことでその面影は失われました。

こちらは駅舎内に掲示されていた、出雲大社への参拝客向けに運営されていた旅館の広告看板。縦書きでそれぞれの屋号のフォントでデザインされているのが美しいです。今の看板デザインや店名ロゴとか横書きが基本で、縦書きを考慮されていないように感じます。令和の今、縦書きにでも映える店名やロゴデザインがもっと生まれてもいいと、この看板広告をみて思い出しました。また、昭和であっても事前に予約して宿泊というのが基本ではありますが、一方で宿を決めずに来訪した参拝客へのPRとして、こうした看板も有効だった時代でした。
掲示された屋号の中で注目は中央の「竹野屋」。言わずと知れたシンガーソングライター竹内まりやさんの実家。令和の現在でも営業しております。「竹野屋」以外でもリニューアルを経て営業中の旅館もありますが、大半は廃業して現存しておりません。
出雲大社の参拝客数は、昭和時代において200万人前後でした。出雲大社周辺での宿泊志向減少と出雲大社での滞在時間が減少していく中で1990年の大社線の廃線以降から2000年初頭は、神門通りの土産屋の大半が廃業となっておよそ有名観光地とは思えないほどの寂れた状況でした。しかし、平成の大遷宮で出雲大社の参拝客が800万人と過去最高を記録。この大遷宮に合わせて地元観光業界と自治体が一体となってシャッター通りとなっていた神門通りを再整備し、新しい店子と平成時代に合わせた土産屋の開業、新たなお土産品の創出を行うことともに、新しい形での宿泊施設が稼働することとなりました。これにより、昭和時代は200万人で推移していた参拝客数も、ここ数年は600万人前後で安定し宿泊客も増加しております。200万人時代と異なり、現在の出雲大社周辺は、神門通りだけでなく周辺含めて本当に観光客で賑わっており、隔世の感があります。そんな状況を見るに、つくづく大社線は残して欲しかったと思わずにはいられません。

話を戻してこの旅館の広告看板を振り返ると、かつての改札口です。現役時代は初詣に降車専用の臨時改札口として活用されていました。なお、駅舎外のホームは改修の対象外でしたので、こちらは1990(平成2)年3月31日のままでした。

改札口右手に手小荷物扱室が復元されてました。この場所、現役時代は壁になってた記憶がありますが、ちょっと記憶があやふやです。

現役時代は一般の待合室として使用されて廃線後は展示スペースになっていた場所は、一等二等待合室として復元されました。

駅正面を眺めます。正面口にあった「大社駅」の看板は取り外され、電話ボックスが復元されました。郵便ポストはそのままで綺麗になりました。

今回は駅本屋のみの改修でしたので、構内やホームはそのままです。3番線にあるD51 774は元々出雲大社境内の広場に静態保存されて、廃線後の2001年に移設されたものです。3面3線と留置線1線があり、廃線直前の1990年1月時点でも多数の初詣臨が大社駅行で設定され、4線すべてが活用されておりました。
今回は時間の都合で、ここまでです。次回もう少し時間を作って再訪をしよう思います。